製品の研究開発、生産、販売および流通過程を通して一貫して統一した対応をとり、未然に問題を防止する措置をとることが必要になってきたのです」。
海外の事業活動規模が拡大するにつれ、キヤノンも何度か外国競合企業との間で工業所有権にからんだ係争を経験するようになった。
その背景には八0年代になって顕著になってきた貿易摩擦問題が横たわっているが、とくにキヤノンにとって最大の海外市場であるアメリカで、そうした「特許紛争」が頻発したのである。
たとえば、八一年(昭和五六年)にカメラに関連した特許訴訟事件、八二年(昭和五七年)にマスクアライナに関連した特許訴訟事件、および複写機関連での米国国際貿易委員会(Iように事件が発生したのである。
また、ECにおいては日本企業を相手取っての反ダンピング訴訟が流行となり、キヤノンも八四年には電子タイプライタが、八五年(昭和六O年)には複写機が、それぞれ反ダンピング訴訟の対象としてEC委員会の調査を受けた。
こうした一連のEC委員会の調査の結果、キヤノンを含む日本企業は高率の関税を付加されるようになったが、これに対して日本企業は当局が事実に反する反ダンピングを主張したとして、司法裁判所に控訴した。
また、ECは日本から輸入した部品にもダンピング関税をかけることを決定したのである。
の背景に欧米との貿易摩擦、技術摩擦がある以上、今後とも外国企業から訴訟などの係争が起こされることはある程度覚悟しなければならない。
したがって、海外市場の比率の高い、キヤノンも、この種の係争事件が起こったときに有効に対応できる体制を整えておくことが不可欠なのです」八五年四月には、経営会議で製品関連法務の統一的管理体制の必要性が認められ、全社的協力のもとにこれを実行することが決定された。
そのときに「特許法務センター」は再編され、特許法務管理部のなかに法務管理課が新設されるが、これは製品の研究・開発製造から販売・流通に至る予防法学的法務の一貫管理を目指したものであった。
さらに八七年(昭和六二年)九月には、こうした体制をいっそう強化する目的で「特許法務センター」は「特許法務本部」へと格上げきれる。
それに先立つ八七年八月、製品の法務問題に対してキヤノングループとして予防法的措置を講ずるため、製品法務委員会(委員長、Y路副社長)が発足している。
同委員会の事務的業務や製品法務の推進業務を行なう製品法務推進室が新設され、ワーキンググループが編成された。
ココムおよび輸出入管理規制問題、ダンピング問題、ITC(米国国際貿易委員会)問題、米国包括通商法案問題、独禁法などへの対応、著作権問題、およびプログラム保護の問題など、多岐にわたっての検討がはじまったのである。
おける機動力を高め、係争の発生を未然に防ぐという予防法務的機能を充実させることが大きな狙いでした。
これによってキヤノンの特許戦略を支える基本的な管理体制はほぼでき上がったといえるでしょうね」この組織の拡充に合わせて、八七年の特許法務本部の人員は一五O人を超えるまでになった。
この間、組織面だけでなく、ハード面での整備も同時に行なわれている。
前にも述べたように、キヤノンでは出願業務の効率化を目的として一九七四年(昭和四九年)からコンピュータによる特許管理をはじめていたが、八0年代になり工業所有権業務がさらに急増すると、大型コンピュータを導入しての新たな特許管理システムをスタートさせた。
これは、発明者の提案を受け付けてから権利登録に至るまでの出願プロセスの管理を、特許法務本部および各開発部門に置かれた端末を通してオンラインで行なうというシステムで、開発に着手したのは八四年(昭和五九年)。
当時、特許庁が推進していた電子出願による「ペーパーレス計画」にも沿ったもので、二年後の八六年(昭和六一年)七月から稼働しはじめている。
このようにキヤノンの特許部門の規模が年々大きくなり、業務も充実してきたことは、キヤノン経営陣の「技術は財産」という特許重視の姿勢を物語るとともに、それを受けての各研究開発部門における特許意識の高まりを示したものといえる。
現在、日本企業は海外からの知的所有権保護の高まりに直面して、特許のような商品に具現化された知的諸産物に関連して、あるいは商品の流通に関連して発生する多様な係争事件に対処し、これを未然に防ぐことが強く要請されている。
このような状況のもとで日本企業が国際企業として生き残っていくためには、いままでの工業所有権の枠を超えた幅広い製品関連の法務分野での予防法学的な対応体制を備えていなければならない。
そのためには、研究開発から生産・販売までの一貫した製品関連法務の管理が求められるわけだが、キヤノンの特許戦略、それに基づく組織整備の歴史はケーススタディとして十分に参考になるのではあるまいか。
ところで、キヤノンが日本企業としては珍しく早くから特許意識に目覚めたのは、なんといっても同社が伝統的に「技術重視」の企業姿勢を貫いてきたからにはかならない。
キヤノンの「技術重視」の姿勢を端的に表わしているのが「中央研究所」の存在であろう。
特許部が「特許法務センター」に格上げされた八三年(昭和五八年)一月、技術開発力の強化を目的として、研究開発部門でも大幅な組織改正が行なわれた。
従来の製品技術研究所が中央研究所に、また生産技術センターが生産技術研究所にそれぞれ改められ、本社技術開発力のいっそうの強化・充実が図られたのである。
中央研究所の前身である製品技術研究所は元をたどればY路敬三の製品研究課を母体に発展してきた事業多角化のための組織で、以前にも一度「中央研究所」を名乗った時代がある。
その変遷の歴史を整理しておこう。
一九六二年(昭和三七年)九月製品開発を担当する技術部内に「製品研究課」が誕生するo一九六四年(昭和三九年)七月開発本部の設立と同時に、製品研究課は技術部内から独立して「開発部」となる。
一九六六年(昭和四一年)一月開発部と開発本部内の研究室が統合されて「研究開発部」となる。
一九六九年(昭和四四年)九月研究開発部が発展して「中央研究所」となる。
七五年(昭和五O年)の赤字転落は、研究部門にも大きな衝撃を与え、それ以後の中央研究所は記録技術を重点にニ−ズ指向を一段と強化し、管理面でも独立採算的な考え方を採用した。
すなわち複写機、レーザーピ−ムプリンタなどの技術を、世界の各企業に供与して、技術料による研究開発投資の早期回収を図るようになったのである。
また、基盤研究などでは通産省の補助金も導入している。
一九七七年(昭和五二年)一月中央研究所は「製品技術研究所」と改称される。
この名称変更は、新規の将来製品および、それに直結する新規要素技術の研究開発を充実させ、より製品指向の体制を確立することを目的としたものだった。
言い換えれば、新製品開発に対する経営的視点が導入されたのである。
その後、七八年(昭和五三年)には光学部が光学研究部として「製品技術研究所」と合体し、七九年(昭和五四年)夏に目黒地区に移転した。
この間、カメラ事業部などと協力してオ−トフォーカス技術や、物理光学を応用したホログラフィック素子や製品が実用化されている。
イギリス留学がパワーアップしました!インパクトのあるイギリス留学です。
さらに軽くなったイギリス留学はパンチがありますね。イギリス留学の特徴をご紹介するサービスです。
イギリス留学について真剣に考えてみました。断然おトクなイギリス留学です。
海外語学留学の意外な一面を紹介します。海外語学留学は女の子の永遠のテーマです。
海外語学留学ではさまざまな施術を受けることができます。海外語学留学の情報をお知らせします。
海外語学留学について解説いたします。海外語学留学のリリースをアナウンスします。
本当の語学留学のことならここ、語学留学はこちらで判ります。
語学留学がオススメです。小さくてかわいい語学留学の登場です。
語学留学ってなかなかですよ。怖いもの知らずの語学留学です。


